“もくてき”のデザイン -成果をあげる組織づくり・人づくりのヒントー

働くことを通して「豊かさ」や「幸せ」を味わう人を増やし、人のエネルギーを最大化する組織・チームをつくること。ドラッカーのマネジメントや、脳・メンタルなどの記事を中心に、成果をあげる組織・チームづくりのヒントをお届けするブログです。

慈愛と慈悲という2つの愛がある

こないだ聞いて、しびれた一言。
「慈愛と慈悲という2つの愛がある」
 
先週、打ち合わせの際に教えていただいた言葉です。もともとは仏教の教えだと聞きました。
 
「慈愛」とは、いつくしむ愛。包み込むような愛。いわるゆる母性的な愛のことを指すそうです。
 
「慈悲」とは、厳しい愛。自立を求める愛。いわゆる父性的な愛のことを指すそうです。
 
 
これは人の成長ステージともつながっていて、人はまずはじめ、「慈愛」のステージからスタートします。
 
赤ちゃんは母の愛に包み込まれることによって、生命をつなぐのみならず、自分自身の生命にすばらしい価値があるということを学びます。
 
しかし、幼少期になると、もう一つの愛である「慈悲」のステージへと移行します。
 
親の愛に見守られながら、人は自立するということ、そして自由と責任とを学んでいきます。ときに突き放すような厳しい愛の中で、自らの力で生きるということを学ぶのです。
 
「慈愛」だけでは、依存的で生きる力の弱い生命が育つことになります。「慈悲」だけでは、自己中心的で社会で生きる能力の低い生命体となります。
 
「慈愛」と「慈悲」という2つの愛をバランスよく受け取ることによって、私たちは人間として生きるために必要な学びを得ていくのです。
 
 
いまの世の中では、「愛」という言葉を主に「慈愛」の意味で使うことが多いのではないかと思います。
 
どんどん便利を求め、簡単で楽で安くて、、、と欲求を満たすものばかりが選ばれる傾向にあります。
 
自分を認めてくれる人、優しくしてくれる人、都合よく甘やかしてくれる人ばかりを求める傾向も、年々強くなってきているのではないでしょうか?
 
「自分らしく生きる」ということが今の世の中の一大テーマですが、それは「慈愛」だけを求めるご都合社会ではありません。
 
晴天だけでは生命が育まれないように、「慈悲」という厳しさの中にある愛を受け取らないかぎり、結局人は自分らしく幸せに生きることもできないのです。
 
 
ひと昔まえは、師匠と言えば弟子を厳しくしつけて一人前に育て上げたものでした。
 
その時は「なんでここまで厳しくされるんだ?」と反発したくなるのですが、あとあと一人前になってはじめて、その厳しさの中にあった大きな愛に気付かされる…。
 
それもまた、愛なのです。
 
時代はどんどん変わっていくものなので、昔のやり方がすべて正しいというつもりは毛頭ありません。
 
しかし、どんなに時代が変わっても「慈悲」の精神が大切なことに、変わりはないのではないかと思います。
 
人間だから、どこまで行っても完璧はありませんが、「慈愛」と「慈悲」という2つの愛をしっかりと受け取りながら、人としてより大きな器へと成長していきたいと思いました。

喜びのために働く社会をつくる

たぶん、これから50年とか100年くらいをかけて、「喜びのために働く」社会になっていくんだろうと思っている。

いま世界中で起きはじめた混乱は、「仕事がなくなっていく」ということへの焦り。仕事がないということ、つまり社会における位置と役割がないということは、ひとむかし前なら「死」を意味したし、いまでは「無価値」を意味するのだと、われわれ人間は思い込んでいる。

イギリスもアメリカも韓国も、根っこにあるのはこの思い込み。これから10~20年くらい、反グローバル、反移民、反ロボットのような「仕事がなくなること」への抵抗運動が続いていくのかもしれない。

こういう混乱を経て、いずれ「喜びのために働く」という社会がやってくる。
 
 
ここ1か月くらい、ドラッカーを読む傍ら、ちょっとだけ「お金の未来」とか「人口と歴史」なんていうテーマについて調べていた。

それを読んで思ったのは、
「いまの形の仕事」はなくなっても、
われわれは生きていけるし、
幸せになれるということ。

そして少なくとも先進国では、
「お金に縛られなくても生きていける」
という意識を持つ人が増えていて、
人々はそれを前提とした新しい生き方を
模索しはじめているということ。

いま起きているのは、
そんな生き方のシフトチェンジなのだと
あらためて気付かされた。
 
 
今すぐ目の前の仕事がなくなることは
たしかに死活問題だと思うのだけど、
広い目で見れば、
グローバル化やコンピューター化、
ロボット化が進めば進むほど、
私たちが生きるためのコストは下がっていく。

コストが下がれば、
「生きるために働く」という
従来の働き方にかける時間は減り、
「喜びのために働く」という選択を
増やすことができるようになる。
 
1%の人が99%の富を握っていることは
たしかに大きな問題だとは思うけれど、
そもそも生きるためのお金に
苦労しない人が増えれば増えるほど、
彼らが握っている99%の富に
たいした意味はなくなる。

いずれお金を握っている人より、
人を喜ばせる方法を知っている人の方が、
社会的な影響力も大きくなるだろう。
 
 
目の前だけを見れば
大混乱のように見えるけれど、
明らかに、未来はよりよい方向へと
向かっている。

新しい世界に合わせて
自らを刷新する人が増えるほど、
未来は明るくなっていく。

われわれが生きている間に、
すべてが実現する訳じゃないだろうけど、
イメージできる未来はとても明るい。
 
 
ドラッカーを学び、
コンサルという仕事を通して、
なぜ人と仕事の生産性をあげることを
やろうとしてきたのか?

なぜライフイノベーションという講座をつくり、
自分らしい生き方へのシフトチェンジを
お手伝いしようとしたのか??

すべてがひとつにつながっていたことを、
ようやく思い出した。

不思議なのだけど、
思いついたのではなく、
思い出したという言葉が
しっくり来る感覚。

なんだろう?これは…。
おもしろいな~(笑)

ドラッカー教授と意見が合わない…笑

私ごときがこんな事を言うのはおこがまし過ぎるのだけど、ひとつだけ、どうしてもドラッカー教授と意見が合わないことがある。
 
人間観についてだ。
 
ドラッカーの人間観は、キリスト教への信仰をベースにしている。キリスト教では「人は不完全な存在であり、弱く、罪を犯す存在」と定義し、信仰によってのみ救済されるとする。
 
不完全な罪人である人間が「自分は完璧な存在である」と思うことで、結果としてファシズムのような全体主義が生まれるという。人間が完璧なる存在だと認めた時点で、そこに自由はなくなるという。
 
社会現象の観察としては正しく見えるのだけど、人間観としては違うんじゃないか?というのが私の意見。
 
そもそも善悪とか、功罪とかって、人間が作った後付けのコンセプトに過ぎない。キリスト教的な神様がもし本当にいるならば、「それは罪なので罰します」なんてことは言わないだろう。もし言ったら、その瞬間に神という存在は破綻してしまう。キリスト教をはじめとする一神教のコンセプトは、この点で矛盾をかかえている様に思う。
 
 
東洋的なコンセプト、つまり「信仰」の替わりに「悟り」を中心に据えると、この矛盾がすべて解消するように思う。
 
「人間は生まれながらに完璧な存在である」
なにもないとは、すべてあるであり、悟りの世界ではこれに気付くことが、人生という修練の旅の目的となる。
 
一神教の世界では神と人は別物として分離していたが、東洋の思想では神と人は同一の存在となる。
 
悟りによって人は自らの内に神の存在を見る。自分は宇宙そのものであり、神という意識そのものであることに気付く。善悪、功罪というコンセプトへの執着から離れ、すべてを受容する。
 
この境地においては、ドラッカーが否定していた「自由」と「完璧なる人間」の共存は可能となる。
 
実はドラッカー教授もこの事にはうすうす気付いていて、「答えは東洋的な悟りにしかないのか?  否、信仰にももう一つの答えがあるはずだ!」というような事を書いている。
 
まあ、個人的な信仰までは否定しないけれど、どうもそこだけは意見が合いません、ドラッカー教授…(^^;;  と、私は思っている。
 
 
キリスト教をはじめとする一神教の世界観は、欲望をベースとした社会では人間に一定の理性を与える役割を果たしてきたけれど、これが今、健全な社会をつくる上での弊害になりつつある気がしている。
 
「神」と「人」を分離したコンセプトとして扱うことで、かえって人の意識の向上のボトルネックになっているのではないだろうか? 人々を競争社会に押しとどめる原因になっているのではないだろうか?? 罪人を増やしてはいないだろうか??
 
私ごときがこんなことを考えることも、書くことも、ましてこうして文章として世に出すことも、おかがましい事は分かっている。
 
けれども、私は私の信じたいものを、信じることにする。「悟り」というコンセプトの方を選ぶ。
 
人間は生まれながらに完璧な存在であり、その精神にはすべからく神が宿っているのだと。欠けているものなどなにもなく、一人ひとりが完璧なのだと。執着を手放すことで、人の内にある善なるものが広がっていくのだと。
 
信仰による救済ではなく、悟りによる自助。これによって、マネジメントを機能させるとき、世界がよりよいものに発展すると信じている。
 
もちろん人間は間違いを犯す。これからも間違い続けるだろう。けれども、信じなければ何も始まりはしない。信じることからすべては始まる。

競争

社会はすべからく競争で成り立っている。
確かに、そんな風に見えなくもない。

けれども、
意識だけは競争の世界から
抜け出してしまっても良いのかな?と
最近思うようになった。

競争には必ず勝ち負けが生まれる。

勝つことの喜びは刹那的であり、
負けることはやっぱり悔しい。

だから人は勝ちの中にある刹那の快感を
求めてしまうのだけど、
競争し続けている限り、
それは「虚しさ」とつながっている。
 
 
資本主義の世の中で、
われわれは
勝つことが生存の条件であり、
負けることは死を意味するというような
意識の中にどっぷり浸かってきた。

けれども、最新の自然科学では、
自然界には「生存競争」は
存在しないという説が
定説になりつつあるのだそうだ。

あるのは、
「生きるための熾烈な争い」
ではなく、
「生物同士が協力しあう相互共存」
らしい。

人類の歴史を見ても、
競争原理だけの民族は滅び、
協力をベースにした民族だけが
生き残っている。

いまの世の中を見ていると、
あまりにも競争原理に頼りすぎていて、
なんとなく危険な気配を感じる。
 
 
変化は宇宙の真理だから、
もちろん競争の原理そのものは
永遠になくならない。

けれども、
「競争だけがすべて」
という意識はいらない。

競争によって新たなものが創造しつつ、
協力によって人が活かしあう社会。

そのようなものを、
この世界に遺す一助になるべく、
この命を使いたいと思っている。

いまの時代に成功するための能力

あまりテレビは見ない方ですが、最近の芸能界、特に芸人さんを見ていて思うのは、あの生き方こそが時代の最先端なのかもしれないな~、、、ということ。
 
テレビでメインを張っている人の顔ぶれって、20年前からそんなに変わりません。若手は新しい生き方を模索しないと、活躍の舞台すら与えられなくなっています。
 
決して若手の能力が低いからそうなのではありません。こないだ何かのインタビューで、ウッチャンナンチャンウッチャンが「今の若手は自分が若いころより、よっぽど質の高いコントを作っているし、面白い!」と言っていました。
 
若手からすると、面白いはずなのになぜ活躍の舞台が与えられないんだ?と思うかもしれません。不公平だと憤りすら感じる人もいることでしょう。「なんで実力主義じゃないんだ?」と。
 
でも、需要と供給から考えれば、これは当然の事です。TV局からすれば、信頼もできて安定して視聴率の取れる定番タレントに仕事を任せたい。どんなに憤っても、仕事は人が行うものである限り、この矛盾は解消されないのです。
 
 
では、どうすれば良いか?
 
ここ最近、ビッグウェーブに乗った芸人さんを見ていると、「おもしろ」に加えていくつかの要素を加えてブレイクした方が多いように思います。
 
PPAPで世界的ブレイクを果たしたピコ太郎さんは、芸人仲間では有名な「楽屋でおもしろ芸人」だったそうです。本当かどうか分かりませんが、TVが苦手でオンエアではあまり「おもしろ」ではなかったそうですが…(笑)
 
彼は芸人の本職であるスキル、「おもしろ」に加えて、ユーチューバーというスキル、そして音楽というスキルを活用しました。
 
嫌われ芸人ランキングでは常連だった、キングコングの西野さん。彼はとうとう芸人という職業すら廃棄し、「おもしろ絵本作家」を名乗りました。
 
彼にとっての「おもしろ」とは、世の中を驚かせること。「芸人なのに…」という常識を逆手に取り、超まじめに絵本作家に取り組みました。絵本の世界にチームマネジメントというスキルを持ち込み、常識を超える完成度の絵本を生み出したことで、やはり話題になっています。
 
要するに、強みの上に強みを重ね、知識の上に知識を重ねることで、イノベーションを起こした人がブレイクしているという事。
 
一般社会でこれから必要とされるのは、こういう強みや知識の「重ね技」ではないかと思うのです。
 
 
ひと昔まえは、何かの分野の専門家になるだけで、それなりに生きる道が確保できました。しかし、今や一つの道だけを極めて成功できる確率は極めて低いというのが現実です。
 
だからこそ、過去の業界の常識にとらわれず、積極的に学んで「自らを変える能力」が必要とされます。
 
「自ら変わろうとする能力」の高い集団は、ほかの職業のマーケットすら、自分のテリトリーに変えてしまいます。
 
ひと昔前なら、現場レポートは局アナやプロレポーターの仕事でしたが、今や芸人のマーケットです。映画やドラマにも、多くの芸人さんが俳優として活躍しています。
 
ネタか本気かはさておき、そういう他分野で活躍する芸人さんをバカにする風潮も多少は残っていますが、おそらく「複数分野」を組み合わせるということが、今の社会で成功を手にする原則ではないかと思うのです。
 
 
専門知識は自分の意志で手に入る時代です。
 
本やインターネットで、情報は自宅でも簡単に手に入ります。師匠が20年かけて学んできた「実践的な知識」は、自分たちの世代は3~5年もあれば、かなりのレベルで実践できるところまで学ぶことが出来ます。
 
こうして生まれた約15年という「時間的ゆとり」を、自分たちの世代は何を生み出すために使うか?
 
これを自ら考え、自ら実践することが、今の時代に成功するための秘訣といえるのではないでしょうか?
 

無意識を意識したら、道が見えてきた!

ここ数日、誰かの質問や相談に答えると、自分にとって大切な「何か」が手に入るということが、繰り返し起きています(*^^*)  どうも今、そういうタイミングのようです。まさに収穫の秋!(笑)
 
おかげで、自分がいま何を始めようとしているのか?についての確信も、自分の卓越した強みや能力も、なんとなく分かってしまいました。本当にありがたい!!
 
やっぱり自分のこれからの主軸となるお仕事は
「マネージャーやリーダーを育成すること」
になるのだな~と、あらためて感じています。
 
 
ある方からのご相談をきっかけに、
ふと社会人になった時のことを思い出しました。
 
大学を卒業して就職する時に思っていたのは、
とにかくお客様の笑顔を増やすことをしたいという事。
自分の仕事でお客様の喜びを増やすことをしたいという事。
 
で、ここで一種の勘違い(笑)がはたらき、
ちょっと規模の大きなサービス業だと思って
ITの会社に就職を決めました。
 
ところが、入社して2~3年して気付いたのは、
「お客様が喜ぶこと」
では、社内がぜんぜん動かないという現実…(^^;;
 
目の前のお客様が喜ぶからこそ、
お仕事があって、お金もいただけているのに、
政治やら、建前やら、損得やら、保身やら、、、
あれこれ面倒くさい(笑)
 
「どうして組織の中がバラバラなのか?」
 
これを何とかする方法はないかと何年も模索していたら、
なにも意識していなかったのに、
ひょんな事からドラッカーに出会えました(*^^*)
 
 
今日はとある方の質問をきっかけに、
自分の強みを再確認!
 
読書会ファシリテーションでも、
会議のファシリテーションでも同じなのですが、
私が無意識にやってきたのは「場づくり」。
 
人が自発性を持ち、
本音の部分を会話し、
そこから組織の意思決定と
一人ひとりの行動、
そして組織全体のにつなげるためには、
「場」が必要なのです。
 
私はこの「場」をつくることが、
非常に得意です(*^^*)
 
鍵となるのは、
その人の存在そのものを「承認する」という事。
 
たとえ意見は自分と違っても、
存在そのものを承認してあげることで、
多様な意見の中から、
組織として必要な答えを見出し、
お互いが納得に近づける!
 
この「承認」という意識は、
一時期メンタルを病んでいたおかげで、
単なる知識としてではなく、
感覚的に身に付いたものでもあります。
 
人は誰もが、
「自分の意見に一理ある」
と思っているからこそ、
承認という意識によって、
本音と本音を融合させる「場」ができるのです。
 
「誰」が正しいか?ではなく、
目的と状況に照らし合わせて、
「何」が正しいか?
 
これを組織として実践するためには、
「意識」と「場」の双方が重要なのです(*^^*)
 
 
ドラッカーのマネジメントと、
メンタル系の知識と、
「場」をファシリテーションする能力。
 
この3つを使ってできることは、
組織のエンジンでもある
マネージャーやリーダーの育成なのではないかと、
改めて感じています。
 
マネジメントやリーダーシップは
知識であり、習慣であり、
それは誰にでも身につけることができる。
 
経営者と現場、つまり人と人とをつなぐのは、
人の意識であり、場である。
 
もともとマネージャーやリーダーの育成は、
組織の重要な課題のひとつですし、
最近は「ストレスチェック制度」という
問題アリアリな制度のせいで、
「人のマネジメント」の重要性がますます高まっています。
 
道がずいぶんくっきりと見えてきたので、
あらためて気合いを入れて頑張ろうと思います~(^^♪

「ただ、ある」ということ。

どこまで探し求めても、
外の世界を見ている限り、
人生の意味が見つかることはない。
 
なぜなら、外の世界には
完璧なるまでに、
「なにもない」から。
 
私たちは、
なにもない世界を見て、
「そんなはずはない!」と、
必死に何かを探している。
 
これが、人生だと思い込んでいる。
 
 
「なにもない」という事を、
すべて受け入れたとき、
はじめて自分という存在が、
この世界で何をしようとしているのかに、
気付くことになる。
 
「なにもない」世界に、
「なにかがある」と確信し、
無から有を創造しようとする意識体。
 
それが、われわれ人間の真の姿。
 
 
物質の中にも、
感情の中にも、
思考の中にも、
なにもない。
 
けれども、
何かが、ある。
 
ただ、
この世界を創造したいという意識が、
そこにはある。
 
自分がいる。