「愛」という言葉の内にあるエゴに気づく
今朝、とあるクライアント様とこんな会話をしました。
「われわれが『愛』という言葉で表現しているものには、実は強烈な自我やエゴの成分も含まれているんです・・・」
ちょっと面白かったので、今日はこの話をシェアしようと思います。
私の身の周りでも、いつの間にか「愛」という言葉を多く耳にするようになりました。2011年の震災以降、ますます増えたように思います。
個人的には、この「愛」という言葉の濫用に、少しばかりの違和感を感じるときがあります。
人が誰かに対して寄せる“思い”や、誰かのために行う “行為”のことを、確かに日本語では「愛」と定義しています。
しかし、その『誰か』に入る人物が「誰なのか?」が問題なのです。
そもそも愛とは、宇宙の万物に降り注いでいるエネルギーそのものです。宇宙にある現象すべては、愛でできています。
すべてであるという事は、何者でもないのです。
言葉としての意味づけをおこなったのは、われわれ人間です。
やさしさも愛。
承認も愛。
厳しさも愛。
さまざまなものを、人間は「愛」という言葉で定義してきました。
言葉として定義したときから、「愛」という言葉の濫用がはじまります。
いつの時代にも、『誰か』の部分に『自分自身』を入れてしまう人があとを絶ちません。『誰か』の部分に自分自身を入れた瞬間から、それは自我やエゴとなります。
いわゆる人間の承認欲求のことを、私たちは気づかないうちに「愛」と呼んでいる場合があるのです。
自我やエゴが動機となっているものは、なかなか思い通りに進んでいきません。ものすごいエネルギーを投入して、ようやくちょっぴり動く程度です。
貢献や感謝が動機となっているものは、それほど多くのエネルギーをかけずに動き出しますし、もっと凄いときは勝手に引き寄せるかのように動き出したりします。
ちなみに冒頭のクライアント様は、「社員への愛をもっと増やさないと…」と仰っていたのですが、この場合、愛(という名のエゴ…笑))を増やそうと努力するのではなく、コントロールや自我やエゴを手放すことの方が、はるかに事態は好転し、成果にもつながるはずです。
所詮みんな人間なんだから、少なくとも普通の生活をしている限り、完璧で純粋な「愛の人」などいるはずがありません…(^^;
私たちは時々、成長を目指すつもりが自我やエゴを膨らませて、「愛」という美しすぎる言葉の魔力にはまってしまいます。
「愛」という言葉に込めてしまったエゴに、たまに目を向けてみると、心のバランスは中心に、中庸に、自然な状態へと戻っていくのではないでしょうか。