マネジメントの前提。ドラッカーの人間観を垣間見る。
一般的にドラッカーと言えば、マネジメントの人と思われがちですが、彼自身は、自らを “社会生態学者” と名乗っています。
そんなドラッカー教授が、人という存在についてどのように見ていたのかを垣間見られる記述があったので、今日はそれをご紹介したいと思います。
「時間の領域、すなわち社会という領域では、個々の人間は無から始めて終わりを終わりとすることはできない。個々の人間は先人たちから時間の遺産を受け継ぎ、それをごく短い時間担い、後の人たちに引き渡していく。
しかし、精神の領域では、個々の人間が始まりであり、終わりである。祖先の経験は何一つ役に立たない。個々の人間は、恐ろしい孤独のなかで、完全に独自の唯一の存在として、自らと自らの内なる精神以外には、全宇宙に何も存在しないかのように自らと対峙する。
人間の実存は、この二つの次元における実存である。それは緊張状態における実存である。 (すでに起こった未来 p281)」
とても難解な文章ではあるのですが、私はこの文章にめちゃくちゃ痺れました。
私たち人間は、物質世界と精神世界という少なくとも2つの次元に存在しており、どちらかの次元で正しいとされることは、もうひとつの次元では否定されるような、矛盾の中に実在しています。ドラッカーの言葉を借りるなら、まさに緊張状態にしか実在できない存在なのです。
ドラッカーは、このことを明確に認識しており、その矛盾を調和させるものとして、マネジメントを提示しています。
「社会的存在」としてのマネジメントとは、事業や仕事のマネジメントに相当します。やりたい事ではなく、なされるべき事であり、顧客価値を創造するという事です。
「精神的存在」としてのマネジメントは、人と自分自身をマネジメントするという事に相当します。その中核にあるのは、他人の自己成長を支援するという考え方です。
そして、ドラッカーは後者の「精神的存在」としての人間の完成形のひとつを、日本に見ています。
著名な日本画コレクターでもあったドラッカーは、日本文化、ここでは特に禅の思想の中に「精神的な完全を達成した」人間の存在を見出したのです。
ドラッカーのマネジメントを禅的な視点によって説明できることには、私自身もずいぶん前に気づき、とても不思議に思っていました。
いま思えば、同じ源流から流れ出た水だったという事のようです。