なにも出来なくても、無力ではない。自然災害を目の前に思うこと。
熊本での地震、被災された皆さまには心よりお見舞い申し上げます。1日も早く普段どおりの生活を取り戻されます様、心を寄せて祈るばかりです。
われわれ人間は、時に悲しいほど無力な存在です。
今回のような自然災害を遠方から目の当たりにすると、だれの心にも無力感という感情が、少なからず沸き上がってくるのではないかと思います。
でも、大切なことは、この無力感にあらがってジタバタする事ではありません。
極端な言い方をするなら、「無力でもいい」のです。無力さを感じている自分を、ゆるめて、ゆるしてあげてください。
そもそも、無力さを認めないことの方が、はるかに傲慢です。
われわれは自然界のほんの一部をお借りして生きているだけなのに、人間はこの事を忘れて、自然すらもコントロールの対象にしたがります。その傲慢さが形を変えて沸き上がったものが、いわゆる無力感という感情です。
沸き上がってくる感情もまた、コントロールすることは出来ませんが、感情とどう向き合うかは、私たちに決めることが出来ます。
無力さを受け入れることは苦しいですが、無力さを受け入れてはじめて、私たちは無力ではなくなるのです。自分にできる真の貢献について考え、行動することが出来るようになります。
今朝、facebookを開いてみたら、私の知らない人々が山ほど表示されて、口々にお見舞いの言葉と、ニュース等を投稿していました。
友人のどなたかが気を遣って、災害情報を共有するグループに私を追加してくれたようです。申し訳なくは思いましたが、私はすぐにこのグループを退会しました。
そこに投稿していたのは、私と同じく、熊本からはるか遠くに住む方ばかりです。
彼らの投稿は、表向きは被災された方々のためのものですが、その裏にあるのは「無力でない自分のアピール」であり、ある種の傲慢さのように感じました。
そして今、私は予定どおりの新幹線に乗り、名古屋へと移動しています。
正常なダイヤで動く新幹線。この裏には、社会インフラを守るために夜を徹して働いてくださった数多くの方々がいらっしゃった事でしょう。
心から頭が下がる思いです。
私たち人間は、どうしても失われたものや、欠けたものに目を奪われてしまいます。
もちろん被災された方々に心を寄せ、自分にできる範囲で応援を届けることも大切です。
しかし、私たちの日常は、なにか特別なことをせずとも、常に貢献という形で社会へと繋がっています。これもまた、決して忘れてはならない大切な事です。
ニュース映像などを見れば見るほど、やるせない思いは募りますが、無力さを受け入れてこそ、私たちは無力ではなくなるのです。自分にできる貢献の形が見つかるのです。
特別なことはなにも出来なくてもいい。私たちの日常は、決して無力ではないのです。