“もくてき”のデザイン -成果をあげる組織づくり・人づくりのヒントー

働くことを通して「豊かさ」や「幸せ」を味わう人を増やし、人のエネルギーを最大化する組織・チームをつくること。ドラッカーのマネジメントや、脳・メンタルなどの記事を中心に、成果をあげる組織・チームづくりのヒントをお届けするブログです。

強みを磨くということ。ドラッカーと禅に見る、セルフマネジメントのゴール。

ドラッカーは、成果をあげる習慣的資質のひとつとして、「人の強みを生かす」という事をあげています。「人の強みを生かし、弱みを意味のないものとすることは組織特有の機能である」とも言っています。

個人の仕事においても、組織の仕事においても、「強み」からしか成果の元となる卓越性は生まれません。しかし、私たちは意識していないと、出来ないことや苦手なこと、つまり「弱み」ばかりに目を奪われてしまいます。

この癖を正し、強みに目を向けることこそが成果をあげる条件となる訳ですが、ここで一つの問題にぶち当たります。

人の意欲やモチベーションを生み出すためのアプローチと、強みを生かし、弱みは意味のないものにするというアプローチが、一見すると矛盾するようにも読めてしまうのです。

 

人の意欲やモチベーションを引き出すアプローチとは、自我と向き合い、手放すこと。つまり、自分自身の感情と向き合うことに他なりません。その中には当然のことながら、ネガティブな感情との対峙も含まれます。

しかし、弱みを無視して強みだけを使えば良いという言葉の解釈次第では、「ネガティブな感情≒弱み」と位置づけ、自我と向き合うことを放棄して良いようにも、読めてしまうのです。

 

この矛盾を解決する糸口をずっと探していたところ、ドラッカー日本画について述べている箇所で、以下のような記述を見つけました。


『禅の伝統は数百年にわたり、人間の強みを発展させることに焦点を合わせ、やがて登場してくる人間に関する理論と、自己実現に関する理論の前触れとなった。仕事は人格の延長であり、人格は仕事の抽出であり、達磨の精神を描くには自らがふさわしくなければならない。 (すでに起こった未来)』


この物語に登場するのは、有名な達磨図を書き残した白隠慧鶴禅師。臨済宗中興の祖と言われる有名な禅僧です。

彼は禅の始祖達磨を描くのにかかった時間を、「10分と80年」と答えたと言います。達磨を描くだけの精神性を身に付けるために、80年という時間を要したのです。

ドラッカー教授はそんな白隠禅師のことを、このようにも記述しています。

 

『彼は人間の精神的な可能性を究め、精神的な力を会得し、自らを精神的な存在に変えた人間である。(中略) 自らの努力によって内部の神性を高め、精神的な完全を達成した。そのような生き方は人間的ではない。精神的であって、実存的な生き方である。知識ではなく叡知に、力ではなく自己規律に、成功ではなく卓越性に焦点を合わせた生き方である。 (すでに起こった未来)』

 

白隠禅師が開発した修行法に「内観法」というものがあります。ひと昔前は、心の病にかかった方の治療に使われる事が多かった様ですが、現在はアスリートや経営者の方が自分自身を見つめ、向き合うための場としても活用されています。

私自身も4年前に、1週間の集中内観を経験しました。

達磨禅師や白隠禅師の修行と比べたら足元にも及びませんが、この経験があるおかげで、禅の修行の意図するものは理解できます。

「己を見つめ、とらわれていた自分自身に気づき、手放すこと」

この繰り返しの中にこそ、ドラッカーの言う精神的な存在としての人間は存在します。そして精神的存在としての完成を目指す生き方の中にこそ、人の強みを発展させる叡知は存在するという事です。

 

 

ドラッカーのマネジメントは、書いてある言葉を道具としてそのまま活用するだけでも、十分に成果をあげることが出来ます。

しかし、ドラッカー自身が「人の意思、個性、感情、欲求、情熱などの要因は無視する」と語っている通り、あえて人の内面には触れないことによって、マネジメントを客観的かつ体系的な道具として完成させたという側面もあります。

その部分を、読み手が補完しながら読むことで、はじめてドラッカーが意図した深遠なる世界が見えてきます。

今回で言うならば、セルフマネジメントのゴールとは、精神的な完成を目指す継続学習(修練)であり、一生続いていくものだと言うことです。

ドラッカーは、現在の日本の教育に対して、このように警鐘を鳴らしています。

『今日、日本では、人間や継続学習に対する禅の考え方にうかがわれる洞察や叡知は危機に直面している。今の日本の教育は、学習の目的を次の試験、次の昇進、次の外的な報酬のための準備と見る西洋や中国の考えを、さらに極端に押し進めた方向に進んでいる。(中略)

はたして日本は、いまなお精神的人物がとしての達磨を描き、「どふ見ても」と言えるようになる学習を取り戻し、学習を本来あるべきものとすることができるのだろうか。(すでに起こった未来)』

今回引用した論文は、1979年に書かれたものですが、今の日本が直面する課題そのもと感じるのは、私だけでしょうか。