「いまここ」にしか自分は存在しない。
「今、ここに生きること」
これこそが真の自分と出会える唯一の道であり、幸せに生きる唯一の方法であると言われます。人によっては、これこそが悟りへの道であるとまで言う人もいます。
色々な場所で聞くので、私も一般教養としては理解していました。
「みんなが言うから、きっとそうなんだろう」
くらいのレベルで…(笑)
今年のゴールデンウィークは、久しぶりに内なる自分との対話の時間を、たっぷりと取ることができました。神社めぐりをしたり、禅の思想や座禅の手順について調べたり、瞑想をしてみたり・・・。
今年に入ってから身の回りの変化が大きく、自分を見つめなおす時期に来ていたこともありますし、たまたま「ドラッカー×禅」を次の研究テーマに設定したことも重なって、どうしても自分ごととして「いまここ」を体感してみたい衝動が沸き上がってきたのです。
いま思えば、普通こんなことは我流でやるものではなく、きちんとしたお師匠様について御指導いただくものなのでしょうが、、、何も考えずに、、、私、、、
やっちゃいました・・・(笑)
禅についてきちんと調べてみると、まず初めに気づいたのは、これまで私はとてつもなく大きな勘違いをしていたという事でした。
「自分を見つけるため」に、内なる自分と対話していたのです。
座禅とは「自分を消す」もの。自我を取り払い、あるものをありのままに受け取る事。そもそもの発想が真逆です。
どうなるか分からない不安もありましたが、「自分を消すこと」の向こう側に何かがあると言うなら、素直にやってみようと覚悟を決め、ひたすら自分を消し、ただ目の前にあるものを観るという事に徹してみました。
実際にやってみると、ずいぶん違った景色が見えました。
まず初めに、私たちが「自分」と思い込んでいるものは、単なる言葉や概念であったという事。
たしかに私たちの身体の一部は、自分の意のままに動かすことが出来ます。しかし、生まれた瞬間はおそらく、自分の身体が自分だという認識はなかったはずです。自分の名前を自分だと認識できるようになったのも、せいぜい1~2歳になってから。自分と他人を比べるようになったのは、おそらく3歳くらいから。
はじめは何もなかったところに、私たちが「自分」という概念を生み出して、そこに縛られている構図が見えてきました。
そして、私たちは「自分」という社会的な認識を育てながら、裏で「自分ではないもの」も同時に生み出しています。
分離させることで、はじめて認識できる。
認識するための分離ですが、ここから比較が始まり、優越感や劣等感も生まれ、結果、思い通りにならない苦しみが生まれていくのです。
さらに私たちは、「いまここ、ではないもの」という分離も生み出しています。
「昔はこうだった」とか、「将来はこうなりたい」とか・・・。目の前にある「いま」をそのまま見るという事をせず、時間までもを分離させて、ますます苦しんでいるのです。
そもそも存在しなかった「自分」という概念を 「自分」と思い込み、目の前にあるものだけが真実なのに「過去」や「未来」という概念の方を真実だと思い込み、結果、私たちは苦しみの中に生きています。
自分で作り出した概念に、いつの間にか自分がコントロールされてしまっている状態。まるでミイラ取りがミイラです・・・。
この世界で生きていく上で、認識するという人間の機能は、なくてはならないものです。決して認識そのものが悪い訳ではありません。
ただ、認識という行為の副作用として起きる分離について、私たちはもう少しだけ知らなければならないのかもしれません。
自分でつくりあげた概念にコントロールされるのではなく、概念として使いこなすためには、一般教養としてこういう話がもっと常識となる必要があるように思うのです。
もちろん、体感として感じることが一番ではありますが、少なくとも知識として身に付ける人が増るだけでも、不毛な争いは減るように思います。
「いまここ」を見ること。観ること。
先人から受け継がれてきた通りにやってみると、たしかにその向こう側に、これまで常識としてきた自分とはまったく異なる自分がいました。
もはや、それを自分という言葉で呼んでよい存在なのかは、分かりませんが…(笑)
正直なところ、この経験をどのように使えばよいのか、まだアイディアはありません。ただ、とても大切な事を体感として感じられたので、いずれどこかで誰かの役にたつ形に繋がっていったら良いな~、、、と思います。