ドラッカー教授と意見が合わない…笑
私ごときがこんな事を言うのはおこがまし過ぎるのだけど、ひとつだけ、どうしてもドラッカー教授と意見が合わないことがある。
人間観についてだ。
社会現象の観察としては正しく見えるのだけど、人間観としては違うんじゃないか?というのが私の意見。
東洋的なコンセプト、つまり「信仰」の替わりに「悟り」を中心に据えると、この矛盾がすべて解消するように思う。
「人間は生まれながらに完璧な存在である」
なにもないとは、すべてあるであり、悟りの世界ではこれに気付くことが、人生という修練の旅の目的となる。
一神教の世界では神と人は別物として分離していたが、東洋の思想では神と人は同一の存在となる。
悟りによって人は自らの内に神の存在を見る。自分は宇宙そのものであり、神という意識そのものであることに気付く。善悪、功罪というコンセプトへの執着から離れ、すべてを受容する。
この境地においては、ドラッカーが否定していた「自由」と「完璧なる人間」の共存は可能となる。
実はドラッカー教授もこの事にはうすうす気付いていて、「答えは東洋的な悟りにしかないのか? 否、信仰にももう一つの答えがあるはずだ!」というような事を書いている。
まあ、個人的な信仰までは否定しないけれど、どうもそこだけは意見が合いません、ドラッカー教授…(^^;; と、私は思っている。
「神」と「人」を分離したコンセプトとして扱うことで、かえって人の意識の向上のボトルネックになっているのではないだろうか? 人々を競争社会に押しとどめる原因になっているのではないだろうか?? 罪人を増やしてはいないだろうか??
私ごときがこんなことを考えることも、書くことも、ましてこうして文章として世に出すことも、おかがましい事は分かっている。
けれども、私は私の信じたいものを、信じることにする。「悟り」というコンセプトの方を選ぶ。
人間は生まれながらに完璧な存在であり、その精神にはすべからく神が宿っているのだと。欠けているものなどなにもなく、一人ひとりが完璧なのだと。執着を手放すことで、人の内にある善なるものが広がっていくのだと。
信仰による救済ではなく、悟りによる自助。これによって、マネジメントを機能させるとき、世界がよりよいものに発展すると信じている。
もちろん人間は間違いを犯す。これからも間違い続けるだろう。けれども、信じなければ何も始まりはしない。信じることからすべては始まる。