“もくてき”のデザイン -成果をあげる組織づくり・人づくりのヒントー

働くことを通して「豊かさ」や「幸せ」を味わう人を増やし、人のエネルギーを最大化する組織・チームをつくること。ドラッカーのマネジメントや、脳・メンタルなどの記事を中心に、成果をあげる組織・チームづくりのヒントをお届けするブログです。

ドラッカー教授と意見が合わない…笑

私ごときがこんな事を言うのはおこがまし過ぎるのだけど、ひとつだけ、どうしてもドラッカー教授と意見が合わないことがある。
 
人間観についてだ。
 
ドラッカーの人間観は、キリスト教への信仰をベースにしている。キリスト教では「人は不完全な存在であり、弱く、罪を犯す存在」と定義し、信仰によってのみ救済されるとする。
 
不完全な罪人である人間が「自分は完璧な存在である」と思うことで、結果としてファシズムのような全体主義が生まれるという。人間が完璧なる存在だと認めた時点で、そこに自由はなくなるという。
 
社会現象の観察としては正しく見えるのだけど、人間観としては違うんじゃないか?というのが私の意見。
 
そもそも善悪とか、功罪とかって、人間が作った後付けのコンセプトに過ぎない。キリスト教的な神様がもし本当にいるならば、「それは罪なので罰します」なんてことは言わないだろう。もし言ったら、その瞬間に神という存在は破綻してしまう。キリスト教をはじめとする一神教のコンセプトは、この点で矛盾をかかえている様に思う。
 
 
東洋的なコンセプト、つまり「信仰」の替わりに「悟り」を中心に据えると、この矛盾がすべて解消するように思う。
 
「人間は生まれながらに完璧な存在である」
なにもないとは、すべてあるであり、悟りの世界ではこれに気付くことが、人生という修練の旅の目的となる。
 
一神教の世界では神と人は別物として分離していたが、東洋の思想では神と人は同一の存在となる。
 
悟りによって人は自らの内に神の存在を見る。自分は宇宙そのものであり、神という意識そのものであることに気付く。善悪、功罪というコンセプトへの執着から離れ、すべてを受容する。
 
この境地においては、ドラッカーが否定していた「自由」と「完璧なる人間」の共存は可能となる。
 
実はドラッカー教授もこの事にはうすうす気付いていて、「答えは東洋的な悟りにしかないのか?  否、信仰にももう一つの答えがあるはずだ!」というような事を書いている。
 
まあ、個人的な信仰までは否定しないけれど、どうもそこだけは意見が合いません、ドラッカー教授…(^^;;  と、私は思っている。
 
 
キリスト教をはじめとする一神教の世界観は、欲望をベースとした社会では人間に一定の理性を与える役割を果たしてきたけれど、これが今、健全な社会をつくる上での弊害になりつつある気がしている。
 
「神」と「人」を分離したコンセプトとして扱うことで、かえって人の意識の向上のボトルネックになっているのではないだろうか? 人々を競争社会に押しとどめる原因になっているのではないだろうか?? 罪人を増やしてはいないだろうか??
 
私ごときがこんなことを考えることも、書くことも、ましてこうして文章として世に出すことも、おかがましい事は分かっている。
 
けれども、私は私の信じたいものを、信じることにする。「悟り」というコンセプトの方を選ぶ。
 
人間は生まれながらに完璧な存在であり、その精神にはすべからく神が宿っているのだと。欠けているものなどなにもなく、一人ひとりが完璧なのだと。執着を手放すことで、人の内にある善なるものが広がっていくのだと。
 
信仰による救済ではなく、悟りによる自助。これによって、マネジメントを機能させるとき、世界がよりよいものに発展すると信じている。
 
もちろん人間は間違いを犯す。これからも間違い続けるだろう。けれども、信じなければ何も始まりはしない。信じることからすべては始まる。